この教材は,スライド教材として作成されたものです。

 

 迫害をのがれたキリシタン  

− 隠れキリシタンと製鉄 −

   宗教が違うだけで,人々は苦しみ,仲間はずれにされ,そして殺されてしまうことが あります
   遠い昔,この登米郡東和町と岩手県藤沢町に,国と地域の発展のために尽くした人々 がいました。      
  島原の乱から始まったキリスト教信者に対する厳しい弾圧・・・・・しかし,その弾圧からのがれた人々がいたのです。
   そして,逆に,保護されたという事実があります。なぜ弾圧からのがれ保護されたのでしょう。
   1549年,スペインの宣教師フランシスコ=ザビエルがキリスト教を広めるため, 鹿児島に上陸しました。ザビエルは,岡山・山口・大分・広島などで布教活動をし,2年後に帰りました。
    当時,狼河原村(今の東和町米川地区)に千葉土佐という人物が住んでいました。土佐は「関西の方では,南蛮流の製鉄法が盛んだと聞いている。自分もこの土地で製鉄を やってみたい」と思ったのです。
    かれは,1558年,今の岡山県から,布留大八郎とその弟小八郎を招いて,この地にすまわせました。そしてて,千松沢で製鉄を始めたのです。
    この製鉄の技術を大八郎とその弟小八郎から伝授してもらった人たちが千葉土佐を含 めた8人でした。当時,製鉄する場所をどう屋と呼んだことから,この人々をどう屋八 人衆と呼びました。
    大八郎兄弟に教えを受けて製鉄を始めたのですが,鉄が溶けるまでには相当長い時間 がかかりました。この時,あるお呪いを唱えると,鉄がよく溶けるということを教えら れました。その唱えごとをしたら,本当によく溶けたのです。
    たぶん,その唱えごととは,キリスト教の教えと祈りのことばだったのでしょう。ど う屋の経営者は,製鉄のためには喜んでこの教えを受けました。実は,この二人の兄弟 がキリシタンであり,西洋からキリスト教を通じてこの製鉄法が導入されたのでした。 同時に炭焼きの技術も伝わったのです。
    大八郎兄弟の教えた製鉄法とは,「たたら式」といいます。またの名を南蛮流製鉄法 といって,従来の方法の数倍の生産力がありました。
    また,燃料には質の高い木炭がかかせませんでした。最も鉄の生産料の多いときには, その範囲が岩手県磐井地方にも広がりました。当然のことながら,キリスト教も拡がっ ていったのです。
    1596年からは,伊達政宗の住む岩出山城へ送られ,仙台城を作るためにも使われ ました。このことが基で,鉄は伊達藩の最も重要な産物となりました。
    1598年,秀吉から「荒鉄2400貫(9000s)を大阪城に送れ」と,いう書状 が政宗に届き,狼河原,大籠村の鉄を大阪城に送りました。秀吉は,検地と一緒に天下 の産物までも調査したと考えられています。
    狼河原村の月山屋敷を江戸城の役人と,伊達藩の役人の御宿として指定したことから, 政宗や秀吉と同様に家康も大きな関心を持っていたことがわかります。
    1611年,伊達政宗は,江戸からルイス・ソテロを迎えました。ソテロの話を聞い た政宗は,西洋文化のすばらしさと,キリスト教の精神の崇高さに心をうたれ,教会を 建てて,その布教を許したのです。大八郎兄弟が布教を始めてから53年後のことでし た。
    ポルトガル貿易を優先した江戸幕府も,1612年,幕府直属の家臣と江戸における キリシタンの禁教令をだしたのです。
    1613年政宗は外国との貿易を志し,家康の許可をえて支倉常長をスペインに派遣 しました。このとき一緒に後藤寿庵という人物も行ったのです。
    その次の年,キリスト教信者に対する弾圧が,伊達藩にも開始されるようになりまし た。しかし,伊達藩は,製鉄の保護という意味から,キリシタンを見てみぬふりしまし た。
    当時,伊達藩では,鉄砲を作るための原料や農地を耕すためのすきやくわの原料として鉄が必要だったのです。
    この時代に作られた「菊一」「菊上」といった鍬の一部が今も残っています。
    当時,伊達藩の鉄の生産料は全国一であったと考えられ,徳川幕府から「伊達恐るべ し」と思われたのです。そのため,伊達藩内のキリスト教信者への弾圧は,特に厳しく なりました。
    1624年の正月に仙台の広瀬川で,カルバリヨ神父ほか8名の人が,真冬,水牢の 中で殉教しました。   伊達藩では禁教が厳しくなるとすぐ,主だった武士や神父にたいして転宗を呼び掛けました。そして,この中には,熱心なキリスト教信者で伊達藩士である後藤寿庵もはい っていました。
    しかし,後藤寿庵は転宗しませんでした。討っ手として向かわせられた片倉小十郎は, 7日間で着くところを途中で狩をして一か月もかけ,後藤寿庵の逃走を助けたと言われ ています。
    1636年政宗が亡くなり,製鉄に努力し,伊達藩のためにつくした人々の住む狼河 原や大籠にも弾圧は及びました。
    1639年と40年に多くの殉教者が真っ赤な血を谷川に流したのが,この地蔵の辻 です。
    地蔵の辻の処刑の時に,役人がこの石の上に腰をおろし,処刑されていく人々を一人 一人確かめたものと伝えられています。この地方での最初の大処刑地だったのです。
    1640年にはこの「上の刑場」で94名の殉教者が葬られました。
    祭畑刑場では,逃げた人々を鉄砲で撃ち殺したと伝えられています。この2年間に合 わせて300名ものキリシタンが殉死しました。製鉄を行うキリシタン全員を保護した かった伊達藩も,幕府の命令に背くことができなかったのでしょう。
    しかし,多くの人々が処刑されたにもかかわらず,どう屋八人衆とその家族は一人も 処刑されなかったのです。伊達家の第一の特産物である製鉄に優れた技術を持っていた ためどう屋八人衆は救われたのです。 
   この弾圧にも屈せず,人々は山の中に洞窟を掘ってキリスト教の信仰を続けました。 大柄沢どう屋で働く人々などが,隠れキリシタンとして信仰を行ったのです。
    大柄沢どう屋で働く人々を見送るような方向に向かってマリア観音像が立てられてい ます。信者の人々は朝夕の通りにこのマリア観音像を拝んで通ったのでしょう。
    弾圧のため一度はばらばらになった隠れキリシタンが,再び製鉄を行うために,狼河 原と大籠に集まるようになったのです。同時に,キリシタンの数も再び増えていきまし た。
    どう屋は,谷川沿いの平らなところに作られました。今は田んぼですが,以前は,ど う屋があった場所です。この場所の上の方に石の小さなお宮が見えます。
    土地の人たちはここを,通称「はやり神様」と言い,大八郎兄弟が布教をしたところ だと言われています。キリスト教だと知られないように「はやり神様」と言って,カモ フラージュしたのでしょう。
    そして人々は隠れ部屋を作り,フランシスコ・バラヤス神父を保護しました。
    また,苦行仏に似せて作ったキリスト像・・・・・
    箱丁位牌という位牌の箱のふたの裏に十字架を描いたりしながら信仰を続けました。
    何のへんてつもない石の裏に十字架を刻んだ石,・・・・・
    表を見ただけでは普通の仏像と変わらず,裏には,立派な十字架がついている鉄製の 仏像など,多くの隠れキリシタンの苦労をしることができます。
    1639年に始まった大弾圧から70年ほど後の亨保年間に,海無沢で120人が処 刑され,40人位ずつ,三か所にお経と共に埋められました。これが三経塚と呼ばれて います。
    この三経塚の処刑を機会に,隠れキリシタンの信者も少しずつ減っていったのです。 しかし,製鉄は明治時代までも続きこの地方に潤いをもたらしました。
    製鉄は,伊達藩の発展に役立ったばかりでなく,日本の国の発展のために大きな役割 を果たしたことは言うまでもありません。
    いつの時代でも多くの人々の苦労や犠牲によって,土地が栄え,歴史がつづられてい くことを忘れてはならないのです。

 

   製    作 登米自作教材製作グループ (山光義 伊藤秀樹 ナレーション 佐藤清子)

 参考文献      ・「洞窟は待っていた」 仙北隠れキリシタン物語  沼倉良之著

              ・大籠の切支丹と製鉄     岩手県藤沢町文化振興会

 撮影協力      ・米川カトリック教会  ・仙台市博物館

 協    力      ・登米地域視聴覚教材センター   ・米川カトリック教会

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