平成3年度宮城県自作視聴覚教材コンクールスライド作品  

半 田 卯 内

中田沼の干拓

   昔から宮城県の地形は,東に北上山脈,西に奥羽山脈がつらなっており,近くの沼は低い湿地帯にならざるを得なかった。
   その東北部に位置し,北は岩手県に接する登米郡,北から南に北上川が雄大に流れ,北上川より西に位置する登米耕土も例外にもれず,多くの沼や湿地帯がたくさんあった。
   江戸時代の登米郡は,その排水の処理に困難をきたし,沼や湿地帯の治水工事は,行政上どうしても行わなければならない事業であった。
   1851年,半田卯内は,父半田左右兵衛 母とくの長男として,登米郡迫町の旧家に生まれた。
   少年時代は,あまり丈夫な体ではなく,度々健康を害し,勉学に励まざるを得ない状況だった。
   父左右兵衛は,一芸に優れた客をよぶことが好きであり,「武芸によって心身の鍛錬をさせなければならない」と考えた。卯内は,9歳の頃土佐の剣士であった沢辺琢磨にてほどきを受け,健康になったのである。
   半田家には,剣術家の他にも俳人・書家・儒教者なども訪れ,卯内は,計らずも見聞を広める機会を得たのである。
   明治3年卯内が20歳になると,父は「早く結婚して商人になることだ」と意見し,兄たちも賛成した。
   明治8年 卯内24歳の時,剣道の恩師である沢辺拓馬により,洗礼を受けることになったのである。
   沢辺拓馬は,当時,緒方洪庵に師事した伝教師「酒井篤礼」の啓蒙を受け,坂本龍馬を兄としたっていた人物であった。  
   洗礼を受けた卯内は,宗教を広めようと信者を集めたが,皆「商人」であった。
   明治12年 28歳になり,卯内は,海産物を売買する商社「交通社」を設立し,多くの富みを得た。
   しかし,明治13年5月,東京の支社長が米相場に失敗し,多額の負債をかかえたと電報があり,商社を手放さざをえなかった。佐沼にいる卯内にとっては,寝耳に水であり,地元の社員全員が財産を失い,彼も,家屋敷を手放すことになった。当時,卯内29歳であった。
   日夜,負債の返済に走り回る卯内のもとに,佐沼の「交通社」に勤務したものには関係がなく,東京の支社長一人の責任であるとの知らせが入った。ただ,長年に渡る負債の返済はのがれられなかった。
   逆境に動ずることなく,常に平静を保ち,万事を行った卯内の影には,一言のぐちもいわず,常に温顔をもって接した妻,「まつえ」の内助の功があったからである。  
   明治15年1月から,卯内は佐沼小学校に勤め,生徒の学力向上に尽くしたのである。「日増しに生徒の学力の進歩に目を見張るものがあった」と,当時の加藤東助は語った。
   明治17年,卯内33歳,登米郡雇となり,卯内が政界生活への第一歩がふみだされたのである。 
   明治19年,郡主席書記となった。佐伯眞満が郡長時代のことであり,佐伯郡長に特別な知偶を受け,仕事もやりやすかった。
   しかし,佐伯郡長が病で逝去するや,3日後に郡長代理を命ぜられたのである。八乙女郡長就任と共に,卯内は,宮城県職員に抜擢され,県庁で仕事をすることになった。
   明治29年,当時45歳の卯内は,学事係専任となり,兵事係兼務を命ぜられた。同年8月,小学校教員検定委員及び尋常中学校新築委員,を命ぜられ,宮城県師範学校等に関わりをもったのである。ここに,教育家半田卯内としても,数々の功績が記録に残されているのである。
   明治34年12月,亘理郡長に抜擢され,教育分野と行政分野において数々の実績を残したのである。
   時は,明治38年,54歳の時,日露戦争による戦乱のため,大凶作となった。知事の命令に従い,各郡長は窮民に食料,物資の救済を行った。この時,窮民を救うため,卯内自らが食料救済を行ったのである。
   明治41年3月,58歳,登米郡庁に就任し,故郷に錦を飾ったのである。
   当時の登米郡は,北上川の付近一帯は,平地が少なく山林が多く,多数の沼や池だらけの土地でありました。
   「北上川の付近一帯をこのままにしていたのでは,この地は,死んだも同然になる」と言われ,治水事業は,行政上どうしても避けて通ることのできないものであった。
   この年,前任の郡長より,中田沼の干拓事業を受け継ぐことになったのである。
  この頃の中田沼は,水深も浅く,以前のように用水としての沼よりも,干拓し,蒸気揚水機によって北上川から別に水を引こうという考え方が多くなってきた。卯内の前にも,多くの郡長が事業を成し遂げることができなかったほどの大事業であった。
   郡民の間では,賛否両論が重なり,事業に不安を抱く人々が多くなってきたのである
   卯内は,「干拓排水の工を完成し,以てこの災厄より逸れしむるは,本群百年の長計にして予が畢生の事業なり」と,言い開墾事業に取り組むことになったのである。
   卯内はまず,これまでの資料をもとに,土木及び農業技術者による沼の高低測量と地質調査からはじめたのである。  
   調査の結果,小作料を決めて農民に米を作らせ,工事費用に当て,卯内自らがその地に滞在し指導をしたのである。
   工事は,計画通りに進まず,日夜努力が続けられた。 おりしも,明治43年8月,大雨によって岩手県永井村より流れる排水のため,中田沼は,一大湖水となってしまったのである。
   郡民は,ますます不安をつのらせ,中田沼干拓の事業の成否を再び疑うようになったのである
   この時,「これ天,辱くも我に絶好の機会を与えたものなり」と自らをふるい起たせ,卯内自らが出水を利用し湖水に船を浮かべ,水面の高低及び地質の測量を行い,給水路ならびに樋管の位置を決めたのである。  
   干拓工事とあわせ,北上川との潜穴の下に新たな墜道をほり,揚水工事も行われた。
   蒸気機関の揚水機は,1分間に162トンの水をくみあげ,予想以上の効果が あり,卯内をはじめ工事関係者は大変喜んだのである。  
   しかし,墜道は,両側から掘ったため,中間が高くなり,北上川の水位が下がると貯水池に水が流れず,再び掘削工事を行い揚水工事の完成をみるに至ったのであった。
   工事は,小作料の増額と工事期間を2年間延長し,4年10か月の歳月と,総額144,000円を費やし,全ての工事が終わったのである。
   開墾後の水田は,多くの農民によって稲作が行われ,よい水田となり,灌漑反別も10倍になったのである。
   大正4年卯内が65歳の時,「中田沼開墾事業」をたたえ,記功碑が立てられたのである。
   卯内は,開墾地の小作料を郡の会計に入れ,工事費用の返済,後継者の育成,土木事業,教育進行のために用いた。更に,農産物を郡外に販売し,郡民の生活は豊かになったのである。
   大正13年,半田卯内の苦労と努力を永久に記念するために「卯内記念像」が立てられた。当年74歳である。
   この卯内の業績をたたえようと多くの人々が除幕式に訪れたのである。
   幼年から様々な人物の話しを聞き,得育と商業教育を受け,若干25歳にして郡民救済に尽力し,終始,郡民のためを思い,郡民と共に事業を成し遂げた人,半田卯内
   いま。豊かな耕土と発展を続ける登米郡があるのは,半田卯内のの業績があったればこそである,といっても決して過言ではない。

  中田沼開墾以後の半田卯内

・大正13年より 登米郡南方村高石における排水事業に携わる
・大正15年 77歳 中田沼町村組合管理者臨時代理に任命さる
佐沼町外五か村組合管理者臨時代理に任命さる
*佐沼町教育会設立,会長に推載せられる
・昭和 3年 78歳 佐沼町長に就任す
中田沼町村組合管理者臨時代理,佐沼町外五か村組合管理者臨時代理辞職
町議会において佐沼小学校,講堂及び教室の増築を提案し満場一致で可決される
中田沼町村組合顧問に挙げられる
・昭和 5年 80歳 開墾事業功労者として新宿御苑の観櫻会に召さる
・昭和 9年 84歳 藩祖伊達政宗公三百年祭協賛会相談役に委嘱せらる
・昭和10年 85歳 夫人 まつゑ病死す(84歳)
・昭和11年 86歳 登米郡仏教保護会顧問に推薦さる
・昭和12年 87歳
(1937年)
5月2日 午後零時10分長逝す5月7日
佐沼小学校校庭において神式により葬儀執行

 

  原   作   高 山 光 義

  参考文献   半田卯内翁小傳  登米郡史  広報「はさま」300号記念誌
          中田町史  北方村史  宮城県史(第8巻)
          中田沼(堤)の干拓史と農業の推移(笠原卓見氏)

  参考写真   半田卯内翁小傳  半田家アルバム  登米郡史
          中田沼(堤)の干拓史と農業の推移(笠原卓見氏)   中田町史

  協  力    登米地域視聴覚教材センター

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