この教材は,平成12年2月26日(土)27日(日)に行われる,第2回登米郡民劇場夢フェスタ水の里「ながれ星の詩」に合わせたVTR教材です。

生命の灯を求めて

開明坂の奇跡

 

俺たちは  自分の境遇に
悲観したり 失望したり
不平不満の心をおこしてはいけない
感謝の生活の中に
自分で開拓して行かねばならないんだ

             ―闇の中の手記―

 75年前、過労のため突然教壇で倒れ失明した青年教師、 教え子とともに若草神社に開眼祈願の途中、崖から転落、奇跡的に開明した青年教師     この,若草神社境内に向かうお神坂が『開明坂』と呼ばれています。
登米郡米川村は、古くから伝わってきた歴史を継承し、大事に守り育てるといった風習が脈々と続いており、村人たちは温和な人情厚い村でした。
 このような環境の中、明治36年12月11日、登米郡米川村狼河原で、豆腐屋を営む父喜三郎と母おみんの7番目の次男坊として首藤清喜は誕生しました。
 未熟児で生まれ,しかも栄養不良の虚弱児でした。そのため,小学 校時代は,細い手足に大きな頭,目ばかり光らせ,「豆っこ,きんちゃっく頭」とからかわれていました。
 そんな清喜少年の初めて描いた絵が登米郡教育会の展覧会で入賞 し、全校生徒の前で、賞状を渡されたのです。それからみんなが一目おくようになり、清喜少年は何にでも精一杯取り組むようになったのです。
 幼いころ、染屋のおじさんの描く凧絵を見て絵を描くようになり,多くのに認められたことで,絵をこよなく愛し、生涯にわたり数々の作品を描き続けたのです。
 高等科卒業も間近になった大正7年3月,2人の恩師は,反対する両親を説得し,自分たちの学生時代の服に旅費まで添えて,仙台の師範学校を受験させてくれました。しかし,清喜の夢も恩師の期待もむなしく,1日目の身体検査で不合格となったのです。
 その年の4月1日,母校米川小学校の給仕となりました。生徒たちから慕われ,「先生になりたい」という気持ちが日毎に強まっていきました。師範学校を出なくとも先生になる道があることを知り,その思いはいっそう強まったのです。
 野口英世の伝記を繰り返し読み,自らを励ましました。無我夢中で準教員の検定試験に望み,大正8年の夏,見事検定試験に合格したのです。翌大正9年4月,16歳で母校米川小学校の先生になりました。
 「准訓導ではまだ半人前だ,早く1人前の教員にならなければ」と,「尋常科本科正教員」の検定に取り組みました。その年の12月,難 関を突破しました。しかし,「「小学校本科正教員」でなければ1人前ではない。」と次の資格を目指したのです。
 翌年四月,新しい5年生を担任し,課外活動のクラブ組織を思い立ちました。小学校唱歌の「ヒヨコの歌」を会歌として,ヒヨコ会と名付け,一切の運営を子供たちに任せたのです。また,校長先生を口説き,米川小学校開設以来の修学旅行を実施しました。
 子供たちと相談して,学校の裏にある若草神社の境内の清掃活動を 始めました。いつしか定例となり,会を重ねるごとに参加する人が増え,町ぐるみの行事となりました。子供たちとの生活に生き甲斐を感 じ,「我が限りを尽くして,生涯を児童教育のために捧げよう」と次の検定を目指したのです。
 大正13年10月20日 校庭の楓も美しく色づき,周囲の山々も錦秋を装い,何となく晩秋を肌に感じるうすら寒い日でした。数日来,重くはっきりしない頭を押さえながら学校へと向かいました。
 4時間目,痛む頭を押さえながら,耐えていました。もうあと,1 0分ぐらいで終わるという時です。バターン!歴史の教科書は,左手から宙にとび,右手に鞭をにぎったまま,仰向けに教壇に倒れたのです。
 その日のうちに「清喜先生倒れる」と村全体に知らせが回ったのです。病名がはっきりしないまま,五日目に隣町の医師を含めた三人で診察に当たったのですが,清喜先生は昏々と眠り続けました。
 母の祈り,家族一同,心友の祈りは真剣でした。六日目の夜「何とか治してあげたい」と村民全てが集い,八幡神社で平癒祈願が行われたのです。母は,「子供たちの嘆きや悲しみをみるに見かねて,村中の人たちがこんなにまでしてくれた。それほど,子供たちに慕われているのに,清喜や!このままで逝ってしまうのか。」と彼の枕元でつぶやくのでした。
 九日目の正午近く,「みず!水!」とはじめて口をきき,母の差し出した吸呑みの水を飲みました。母は,「ああ生き返った。助かったのだ。」と,思いながらも,「ひょっとすると最期の一瞬の炎であり, これが末期の水になりはしないか」と,また新たな不安につつまれま した。
 「まだ電灯はつかないの」清喜先生の言葉に,母をはじめ枕元の一同は,唇がふるえ,誰も答えられませんでした。待ちに待った意識の回復でしたが,一瞬のうちに悲しみに変わったのです。「首藤先生,意識がでたそうだ。」たちまち村中に広がり,大勢の人たちが見舞いに集まりました。
 学校で倒れてから11日目の10月31日,生徒2人がお見舞いに来た日,清喜先生は,子供たちとの話の中で「失明」を知り,髪の毛をかきむしり,枕にしがみつき,大声で泣きました。
 その夜彼は,悲しみに打ちひしがれながら,心友の直治郎にノート と鉛筆を求め,やり場のない想いを書いたのです。これが「闇の中の手記」の始まりでした。
 5年生の教室では,「若草さまのお水も効くよ,おらえのおばんつあんも治ったぜ。」という話もでたが,結局は,放課後に若草神社に集ってお祈りすることになったのです。
 ある夜のこと,母が枕元に座り「お前があきらめたって・・・私はあきらめない・・」という説得に,大学病院で診察を受けることにしました。しかし,その夜から自分の状態を自分で哀れみ,「死だ!やっぱり死だ!」ひそかに心に決めたのです。
 清喜先生は,絶望の日々のなかで,一度は,旱魃沼に身を投げようとして失敗し,二度目は,夜に帯を使って命を絶とうとしましたが,教え子の両親や自分の母に救われたのです。
 大学病院では,「神経衰弱性黒内症」と診断されたが,一月たってもいっこうに回復の兆しはありませんでした。もだえ,苦しむ中で,「先立つ不幸を許してください。」と心に念じ,頸動脈に当てようと剃刀を握った手を膝において,じーっと闇を見つめたのです。
 突然闇の中に,教え子の顔が!2つ3つ4つ・・・・後から後から追いかけて現れ、闇の中にいっぱいに並びはっきりと見え,大きな声で迫ってきたのです。「先生!死なないで!」「先生ーっ!死んではイヤッ!」その叫びがはっきり聞こえたのです。
 彼の眼には,涙がこみあげ,あふれ出ました。手がわなわなと震え,剃刀を投げ出し,がばっと布団の上に突伏して泣きました。一瞬,母の姿が脳裏をかすめ,社前に額ずく教え子の姿が見えたのです。翌朝,何事もなかったように起きあがり,第三の危機から救われました。
 翌年の1月26日清喜先生は,退院の申し渡しを受けたのです。彼にとっての退院は,もはや見込みなしという宣言に他ならなかったのです。
 退院し鎮守の森の待つふるさとに帰った彼のもとに,一目先生の顔 が見たいと,入れ替わり立ち替わり教え子たちが見舞いに訪れました。そして,教え子たちは,毎朝薬師様のお水を汲んできてくれるのでし た。
 母は,朝四時になると彼を起こして,毎朝毎朝,若草神社に手を引いてお参りしました。そんな毎日の中で,「目が見えなくとも五感で感じることのできる心の眼」に彼は気づいたのです。
 大正15年3月5日,前日の祈願当番だった市郎と義男が若草神社の散歩に誘ってくれたのです。神社の境内に続く急な坂に入る前に一息入れるため,煙草を吸おうとしました。その時,足下が狂い足駄の歯が,崖の端にかかり,体がぐるりとゆれ,ぐるんぐるんと弾むように転げ落ちたのです。
 1週間の静養の後,彼の生涯であった教育の場へ感謝と感激に包まれて復帰したのです。そして開明の感激が,彼の心の外面を幾重にも堅く包んでいた殻を突き破りました。
 
 昭和5年(9月17日),父が64歳で亡くなった悲しみと,妹をカナダに送った寂しさの中,清喜先生は,検定街道の最終関門に立ち 向かいました。少年教師となって10年目の昭和6年2月に長い間の念願がやっと達成され「小学校本科正教員」の免許状を手にしました。彼は,まだ雪深い父の墓前に免許状を広げ「もう完全に一人前です。喜んでください」と報告したのです。
 昭和10年「五体そろって正常な子なら一人で行ける。一人でも育つ。しかし,盲目の子は誰かが手を引いてやらねばならぬ。それが私に与えられた使命なのだ」と開明以来十年間ずっと考え続けてきた彼の念願である「記念の塔」を打ち立て,減俸を承知で宮城県聾唖学校の教員になったのです。
 その後、大阪市立盲唖学校へ,家族を残し教え子の魂に呼び寄せられるように戦時下の中国大陸へと,教育遍歴を続けました。
 終戦を迎え、家族の疎開先であった村田小学校を皮切りに,再び熱 き思いで教壇に立ちました。退職後は,宮城町の教育長を経て,幼稚園の園長を努めました。
 「首藤清喜先生」の「生命の灯」とは,人の生命そのものであり,清喜先生の「教育の生命の灯」であり,

 清喜先生の「子どもとその父母,地域に広がる学びの生命の灯」でもあったと思います。

 清喜先生の残した「生命の灯」は,子どもたちの持つ未来に広がるたくさんの夢を大切に育てること

 忘れ去られつつある師弟の心のつながり,人の温かさと思いやりの大切さを今に伝えているのです。

 

 

  制  作     登米地域視聴覚教材作成グループ

 第2回登米郡民劇場夢フェスタ水の里「ながれ星の詩」問い合わせ先

 登米祝祭劇場 0220−22−0111    夢フェスタ水の里公演事務局 0220−22−0001  

back   自作教材top