北上川の交通
① 相模土手と曲袋(まげぶくろ) | |
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昔,北上川は,浅水の川面から新井田を通って流れていました。たびたびの水害のため,この地いきはひどいあれ地になっていました。 |
今の北上川 | |
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1605年(慶長10年)登米の殿様の伊達相模守宗直公(だてさがみのかみむねなおこう)が水害をなくすため,二股川に流れをかえ(まげぶくろという),大泉から浅水までの土手(相模土手)を5年間もかかって築きました。 |
むかしの北上川(1600年頃) | |
そのあと、人々の長い間の努力で,あれ地を広いゆたかな水田にかえていきました。 |
② ひらた船 | |
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北上川の川すじがかわると,流れがゆるやかになり,船の行き来がさかんになりました。物を運ぶのに「ひらた船」が使われました。ひらた船には米俵を400俵(24,000キログラム)ぐらいつんで運びました。石巻まで行くのに一日,帰りは三日ぐらいもかかりました。 |
ひらた船(昭和20年) |
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このほかに,定期船も通り,いつも人やにもつでいっぱいでした。また,大泉や堀米,水越,長谷には舟場があって,にもつを積みおろしたり,人が乗りおりしていました。 |
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昔の船つき場 |
③ 船 橋(ふなばし) |
川むこうの東和町に行くときには,わたし舟でわたりました。昭和62年(1987年)まで大泉と嵯峨立をむすぶ,わたし舟がありました。 |
明治28年(1895年)に,錦桜橋(きんおうばし)のところに地域の人たちがお金を出し合って船橋をつくりました。舟を一列に並べて,その上にやぐらを立て,板をしいて人が歩けるようにしたものです。橋の両側には,料金をはらってわたりました。明治33年(1905年)には,今の米谷大橋のところにも作られました。 |
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④ 錦桜橋(きんおうばし)と米谷大橋 |
船橋は,強い風がふいたり,波がたったりすると橋がゆれ,水かさがますと橋全体ももちあがるしかけでした。しかし,大水のために何度も流されました。 |
そのために昭和5年(1930年)に米谷大橋がつくられ,登米郡と本吉郡をむすぶ大切な橋となりました。堀米橋は,昭和19年(1944年)7月の台風で流されました。しばらくの間,わたし舟でわたっていましたが,昭和31年(1956年)に,今の錦桜橋がつくられました。昭和53年(1978年)の宮城県沖地しんで,米谷大橋も錦桜橋もひどくいたんだので,どちらも新しくかけかえられました。 |
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