「青い目の人形」伝



 「わが校の宝」として,昭和63年12月24日月河北新報に紹介された「青い目の人形」は今日も142名の児童,12名の職員を見つめている。また,学校を訪れる 学区民や来客にも,長い上沼小学校での生活をそっと語りかけている。
 いったい,どれだけの人に出会い,そしてどれだけのことを語りかけてきたのだろうか。その経緯をたどっておきたい。

中田町立上沼小学校(旧職員) 教諭 佐々木 清   


昭和2年4月19日 火曜日     気象 晴 温度57度
 この日の学校日誌には,「米国児童ヨリ寄贈ニ係ル親善人形歓迎曾ヲ午前九時ヨリ校庭ニ於テ開催ス」と青インクで記されている。児童数は513名(尋常科431名,高等科82名)。温度は今のになおせば14℃。まだ肌寒い。

 桜の木や松の木がもっと多かった現在の場所で、大正12年に建てられた木造校舎と、桜のつぽみがふくらんだ校庭で、星正兵衛校長は、新学期早々の緊張した顔をしている児童ににっこりしてこんな話をした。 

 『みなさん、こんにちは。これから米国のお友達から贈っていただいた「青い目の人形」さんをお迎えするにあたってお話をしますから、ようくきいてください。
 この人形は、シドニー,L,ギューリックさんという人がお世話してくれたものです。
 ギューリックさんは教会の仕事をして20年間日本に住み、日本の人たちととても仲がよい方です。自分の国米国と自分の大好きな日本が、いつまでも仲よくしていくには、米国の子どもと日本の子どもが仲よくなることが一番いいことだと考えました。そして、日本の子どもは「ひな祭」をして人形さんをとても可愛がっているので、人形さんを贈ってくれることになったのです。 
 人形さんが着ているすばらしい洋服や帽子は、米国全州の260万人の子どもたちが、バザーを開いてお金を集め、市氏の協力をえて心をこめて手作りしてくれたもの。ひな祭りに間に合うようにと米国から「天洋丸」という船に乗り、広い大きな太平洋を旅行してきました。いっしょにやってきた人形は12,739,そのうち宮城県の小学校や幼稚園には221贈られました。
 この人形さんの名前は○○ちやんといいますよ。いっしょに言ってごらん。
 ほら、○○ちやんを見てください。髪の色は黒くありませんよ。目の色もちがいますね。米国の子どもとそっくりです。
 それから、ほら、○○ちやんは横にすると「マンマー」。可愛いい声を出し、目もつむるんです。目の色や髪の色がちがっても、それに言葉なんかがちがっても、みんな同じ人間なのです。○○ちやんをだいじにして、米国の子どもたちや世界の子どもたちと仲よくできるよう心がけてください。わかりましたね。
 これで校長先生の話を終ります。』
 今でいう国際化、国際交流、国際親善を高らかにぶちあげたのではあるまいか。
 しかし、513名の児童は、そんなことよりも今初めて見る外国人の髪や目の色におどろき,そして「マンマー」という声を出す人形の不思議さ、あるいははでな西洋服にうらやましさを感じ、はやくさわってみたい、「マンマー」と言わせてみたいと思ったにちがいない。
 星正兵衛校長はさらに、得意になって「青い目の人形」の歌を教えてくれたという。まだ見ぬ、いやまったくの異国アメリカの子どもをかってに想像し「青い目をしたお人形はアメリカ生まれのセルロイド…,」とむじゃきな、かん高いうた声が八幡山の森にこだましたのではあるまいか。
 人形には、「人形旅行局発行」のパスポートが持たされた。当然のことながら名前があったはずである。 しかし、残念なことには、パスポートが残っておらず、「名前不詳」で現在に至っている。

不幸な戦争時代
 昭和18年2月19日付毎日新聞によれば、国際交流のシンボルであり、多くの子どもたちにはかり知れない夢をあたえた「青い目の人形」を焼却処分する命令が出たことを伝えている。
 その見出しは「青い目をした人形憎い敵だ許さんぞ」「敵国スパイ」「仮面親善使」
 なんともすさまじいものである。日米協会会長渋沢栄一が政府にはたらきかけ、文部省の手で全国に配布された人形。アメリカの子どもの善意、いたいけな日本の子どもが世界を見る窓にもなった人形。あまりにもひどい、いや、馬鹿げた仕打ちをしたものだと今は思う。安心してそう言える時代なはずである。
 しかし、昭和18年といえば、世界を相手に戦争をしていた日本の雲行きがあやしくなり国の戦争政策に異をはさむことは断じて許されない時代であった。
 今は名前さえ知らぬ一体の人形。厳しい焼却処分命令をのり越えて今も上沼小学校に存在するのはどうしてなのであろう。きっとだれかがどこかに「かくしていた」にちがいない。その人は・・・。

「マンマー」の、今も耳に
 大きな災禍を残した長い戦争も忘れかけられている今、昭和20年の終戦まで三年間上沼国民学校上沼分校で「小使いさん」をしていたという菅原喜久也さん(大正五牛生まれ,八播山)をたずねることができた。息子さんやお孫さんから、「青い目の人形」が今も上沼小学校にあることをきいて、人間にとっても人形にとっても不幸な戦争時代を思い出してくれていた。
 今はこわしてしまった木造校舎、玄関を入ったその左手が職員室であった。壁の前には、本や理科の実験道具が雑然と入っていた大きな戸棚が三つ置いてあった。戸棚は一人や二人で動かせるものではなく、がっちりしたものだづた。木の箱に入った人形は、その戸棚に飾られていた。
 いつのことかはおばえていないが、「アメリカ人形、ストーブにくべで焼いてしまえ」と佐沼の警察から 命令がきた。本校にいた佐々木平治校長からも、「調べにくるので、なんとか始末してくれ」と頼まれた。 分校主任の加藤八郎先生と私は、「みんなが戦争をしているというのに、人形までくべでしまえなんて。なんとかかくす方法はねえべが」と考えこんだ。昭和2年の歓迎会のことも語りぐさとして伝えきき、そして、毎日目にふれる「青い目の人形」が、いつの間にか職員室の一人のメンバーとなじんでいた二人の胸中が思いやられる。いや、それ以上に、その特代の冷酷さを思った。
 子どもたちの戦意高揚のための道具として利用され、校庭で次々に壊されたり、焼かれたりしていた特代。もしもかくしていることが見つかると「アメリカのスパイ」だとか、「非国民」とか言われ、あげくのはてには地域の中でも生活できなくなる時代であった。
 分校主任の加藤先生と小使いさんの菅原さんは、それを承知で共謀、人形をかくす方法を考えついた。同僚の先生や、校長先生には本の類、地図の類といっしょに「○○さん宅に疎開させた」とか、「焼いた」と偽って。
 二人のかくした場所は、なんと職員室そのものだった。みんなが帰り、暗くなるのを待ち、一人や二人で動くはずのない戸棚を動かした。幸いにして、戸棚と壁の間に、ちょうど人形が入るくらいのすきまがあったのである。
「ここならば、巡査がきても、動かせないし、動かしてみることもないだろう。見つからないであろう。」
 戸棚の中のものを外へ出し、戸棚を動かし、またもとの場所に並べる作業は、ずい分と時間がかかった。そして、「もし見つかったならば…。いや、ここならぜったい見つからない…。いや、もしも……。」という思いが何度去来したことか。
 木の箱から人形を出す。ガラスのふたを開ける。人形をそおっと抱いて外に出す。人形は目を閉じ、「マンマー」と芦を出した。あかりのない、まっ暗な、きみの悪い職員室の深夜。その声は、人形ではなく、人の子が「焼かないでちょうだい、かくしてちょうだい」とせつなく訴えているように、今も耳の底からきこえてくる。佐沼の讐察からは、やっばり調べにきた。
 「人形はちやんと焼いたか」。
 「はい、言われたようにストーブにくべで焼きました」。巡査はカラのケースをのぞいたり、職員室を鋭い目で物色した。流し場の釜のフタまであけてのぞいた。巡査が帰るまでの間、なんと長かったことか。「オラダチダケケイサツニツカマル」こともなく、ほっと胸をなでおろした。
 菅原喜久也さんは、病気のため今は椅子に腰かけたままの生活をしている。50年前のできごとを、人形の「マンマー」の泣き声が今もきこえているように思い出し、はっきりした口調で語ってくれた。それだけ、当時は生命がけでかくしたことを証明しているように思えたのだった。
 翌日、青い目の人形を抱いて、私は再び菅原さんをたずねた。
 「ああ、これだ、これだ・・・」。目がしらがあつくなってきたのだろう。そばに座っていた奥さんがそっと目のあたりをふいてくれた。

名前のこと

 アメリカから贈られた時には、パスボートを持参させられていたので、当然名前もついていた。しかし、今に至っては、パスボートを見る機会はまったくもってありえない。
昔の小学生の何人かに「その時、青い目の人形さんを、何と呼んでいましたか」とたずねてみた。すると みんながみんな「メリーちやんと呼んでいた」と語るのだった。
 いつまでも名前不詳のままでは気の毒なので、この機会に、現在の児童とも相談し、名前を「メリー」ちやんと呼ぶことにしたい。何かの折りに、確認されることがあれば幸いである。
 なお、平成元年にアメリカへ里舟りした92体のうち、氏名不詳は13体になっている。

加藤マサ子さん

 上沼字谷地前に、息子さん一家と暮らしている。加藤八郎先生の奥さんにあい、「青い目の人形」を戦時中に保管してくれたことなどをお話しした。七年前に亡くなった御主人のしたことをきかされて、すごく懐しんでおられた。
 人形が上沼分校にあったことや、まして戦時中に隠していたことについては、全く記憶してはいない。加藤八郎先生は、奥さんにも語らず、職員にも語らず、「ストーブにくべで焼いた」ことにしていたのではなかろうか。

学校日誌
 昭和18年4月1日から、学校日誌には加藤先生の検印が押してある。ことのついでにこの特代を理解してもらうために、当時の学校日誌からいくつかの記事を拾いあげておこう。
昭18・ 4・ 1 加藤八郎先生披露式挙行 午後一時ヨリ詔書奉讀式
昭18・ 4・ 3 神武天皇祭(授業ヲ行八ズ)
昭18・ 4・24 靖国神社臨時大祭八時遥拝式軍人墓地清掃(初三以上)
昭18・ 4・29 天長節拝賀式
昭18・ 5・ 5 強歩訓練実施
昭18・ 7・31 午後4時47分、故△△君以下一三柱御遺骨ヲ上沼駅着 児童引率シテ御出迎ス
昭18・12・10 果樹園創立兼総会
昭19・ 2・21 俳句加藤先生作二句
雪ダルマ にらんで消える 春の雪
春の雪 戦車軍艦 校庭せまし
児童数  昭18…289名  昭19…307名

人形のケースについて

 「青い目の人形」は木の箱に入っている。表は片開きのガラス戸である。箱の底には「昭和四牛三月二十一日」と墨で書かれている。残念なことには、作づた人の名前が書いていない。すっかりすすけた箱は、人形の腰を支える中の段を見れば、かなり窮屈である。             

        

 そこで、菅原喜久也さんの息子さんの菅原正明さんは、大工さんであり、PTA会員でもあるので、この機会に人形ケースの新調をお願いすることにした。快く作っていただくことができた。
                   

おわりに

 1973年(昭和48年)群馬県利根郡東小学校に保存されていた「青い目の人形」についてNHKTVが放送した。この放送が多くの人々の関心をよびおこし、次々と見つかるようになった。1988年5月時点では218体知られている。1992年10月時点では、宮城県内のものは次の5体である。
・上沼小学校・三本木小学校・村田第四小学校・桃生小学校・広渕保育所
 昭和58年2月には、日米友情交換人形「青い目の人形展」が東京西武百貨店を会場に開催された。レーガン大統領訪日に合わせて企画されたが、日程の調整がむずかしく大統領には会えなかったという。上沼小の人形も参加している。「56年ぶりの同窓会」という見出しで報じた新聞もあった。
 また、平成元年10月〜12月には、アメリカ各地で「青い目の人形里帰り展」が開催された。ワシントン、サンフランシスコ、ロスアンジェルス、ダートマス等でのスナップ写真も学校には保存してある。
 さらに平成三牛六月には、ギューリック三世が山形市に来るのを紀念して、東北地方に残る30体といっしょに「青い目の人形展示会」があり、参加をしてきている。
 一つの人形にすぎないというには、あまりにも濃厚な厳しい歴史を遭遇した。そして、多くの人々とさまざまなかかわりをもってきた人形。
 これからも多くのことを語り伝えていくのではないだろうか。

上沼小学校創立120周年記念
上沼小学校PTA活性化事業
平成4年10月31日発行

「青い目の人形」より

中田町立上沼小学校

987-06 宮城県登米郡中田町上沼字八幡山73
TEL 0220-34-2553

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