中田沼の干拓2
平成5年(1993年)は,夏でも寒い日が続き,東北地方は冷害になりました。宮城県でも米の取れ高がいつもの半分以下になり,農家の人でさえ米を買わなければならなかった地域もあったほど,たいへん心配されました。 | |
昔から,東北地方や北海道は,たびたび冷害におそわれ,食べるものがなく「餓死」した人もたくさんいたのです。 | |
明治38年(1905年)もひどい冷害になりました。郡の人々はこの時,米を多く取るために,次のような大事業に取り組んだのです。 | |
(1)中田沼を干拓して水田につくりかえる。 | |
(2)大泉に揚水機場をつくり,北上川からいつでも必要な水を水田に送ることができるようにする。 | |
この大事業は,明治41年(1908年)から2年間で完成する予定ではじめられました。 | |
ところが,せっかくできかかった水田は,明治43年(1910年)8月に大洪水におそわれ,ふたたびもとの沼のようになってしまったのです。人々はがっかりしてしまいました。 | |
この時「これ天,辱くも我に絶好の機会を与えたるものなり」と立ち上がったのが,登米郡長の半田卯内です。 | |
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半田卯内は,ふたたび沼のようになった水田に舟をうかべ,測量をやりなおして給水路や排水路の位置をきめたり,工事のせんとうにたってはたらきました。(半田卯内:中田沼の干拓)
小名倉のトンネルは,さらに深く掘り下げられ,イギリス製の蒸気ポンプをつかって北上川から水をどんどん汲み上げることができるようになりました。 明治45年(1912年)5月には,工事の完成を喜ぶ祝賀会が,大泉の長承寺の庭で開かれました。 |
昭和4年(1929年)には電動ポンプに取りかえました。さらに,昭和48年(1973年)からは,用水路や揚水機場の整備が国の事業として行われ,昭和51年(1976年)に完成しました。今では,「北上川沿岸土地改良区」が水の管理をし,人々は安心して米作りができるようになりました。 |
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